折田侑駿
私が金輪町の住人になったのは、2011年のことである──。
このページを訪れたほとんどの方がご存知だとは思うが、金輪町とは、イキウメの作品に数多く登場する架空の町だ。ここではどんなおかしなことだって起こり得る。ただの与太話だと思っていたことが、ごくごく自然と私たちの目の前で起こる。そんな不思議な町だ。疑っている余裕はない。目の当たりにしたその瞬間から、それまでとはまるで違う人間に自分自身が変わっているのだから。
いまでも正確に覚えている。2011年の6月12日に、私ははじめてそういった体験をした。イキウメの代表作である『散歩する侵略者』を北九州芸術劇場で観たのだ。当時の私は演劇に興味を持ってまもない鹿児島の大学生だった。南国はいいところだと東京へやってきて改めて思うが、良質な演劇作品との出会いはとてもかぎられている。だからあの頃の私にとって『散歩する侵略者』は、ある意味において非常に危険な作品だった。侵略者=宇宙人が人間たちから"概念を奪う"というユニークなアイデア、それを支える巧妙な作劇、特異な世界観を体現する俳優陣の美しいパフォーマンス、観客の想像力を刺激するシームレスな場面転換、のちにイキウメ作品ならではなのだと理解することになる美術や音響、照明などの演劇空間を構成するさまざまな要素──それらすべてが当時の私にとって、驚きと興奮に満ちていた。
こうしてイキウメの演劇に魅せられた私は、金輪町の住人になったのだ。そして、『太陽』や『獣の柱』、2020年代に入ってからの『外の道』や『人魂を届けに』といった作品をとおして不思議な体験をするたび、個々の作品の創作の裏側が気になってしょうがなくなっていた。いったいどのようなプロセスを経て、それぞれの作品は劇場空間に立ち上がっているのだろうか。
そんな私のもとへ届いた、イキウメ最新作のお知らせ。客演なしの劇団員5名による『ずれる』の創作と誕生の過程に、私は少しだけ立ち会うことができた。稽古場をのぞき、開幕直前に作・演出を務める前川知大さんにインタビューし、『ずれる』が劇場で生まれる瞬間を、目撃したのだ。この流れの中で感じたことを、前川さんの発言を織り交ぜつつお届けしたい。
イキウメの最新作『ずれる』は、内陸の地方都市・多聞市にある小山田家で物語が展開していく。少し前に起きた豪雨災害によって、金輪町には大きな被害が出たらしい。そこと隣接する山間の町が、多聞市だ。
登場人物は5人だけ。この家の主であり、持株会社の経営者である小山田輝(安井順平)、その弟の春(大窪人衛)、春の友人で環境活動家の佐久間一郎(盛隆二)、輝の秘書にして小山田家の新たな家政夫である山鳥士郎(浜田信也)、不思議な力を持つ整体師の時枝悟(森下創)である。
物語は小山田家のリビングではじまり、ここで終わる。つまり、空間が限定されているわけだ。これまではひとつの作品内にいくつもの空間をシームレスに出現させてきたイキウメだが、今回は趣向を変えてみたらしい。
本作では俳優の一人ひとりに、それぞれのキャラクターを当て書きしています。『外の道』からはコロス的な演出を取り入れ、特定の人物の内面を別の誰かが語ったりするような表現手法をとっていたのですが、今回は劇団員5人だけなので、あえてスタンダードな作品にしたいと思ったんです。空間をひとつに限定して、明確な出ハケを用意し、各俳優の演じる役が変わることなく、一人一役の、ある種のスタンダードな会話劇をつくろうと、創作に取り組む最初の段階で決めました。時間の流れに関しても、ほとんど直線的です。
本作の物語の大きな軸になっているのは、親の敷いたレールを歩み、"家(族)"というものに縛られている小山田家の兄・輝と、それらすべてからの解放を望んでいる弟・春の関係。この兄弟の関係性の隙間に、エコテロリストである佐久間などが入り込んでくる。この物語の着想はどこから生まれたのだろうか。
物語を書くときはいつも、いくつかのアイデアを掛け合わせていきます。たとえば、作品に取り入れたいSF的な要素に、個人的に関心のあるモチーフを掛け合わせ、その相性を探ってみたり。今回のメインのアイデアでいうと、幽体離脱です。でも幽体離脱って、もうかなり手垢にまみれているんですよね。映像だったら簡単に表現できてしまうし、演劇表現においても演者と観客の約束事として成立してしまう。だからこの作品でみんなで挑戦したかったのは、どうやったら本当に肉体から霊体が抜け出たように見えるか、ということです。劇中の言葉でいえば、魂(霊体)と魄(肉体)を"ずらす"行為です。このシーンはみんなで意見を出し合いながら試行錯誤しましたね。
魂と魄をずらすシーン──登場人物が幽体離脱をする瞬間──は、俳優たちの身体による表現だけでなく、音響や照明などの力が結集した、総合芸術としてとても美しいものになっている。このアイデアに、前川さんは"家畜化"というテーマを掛け合わせた。
動物倫理というものに興味がありました。本作の劇中では佐久間が動物の権利について語るシーンがあるのですが、僕自身も工場畜産などに関して思うところがあったんです。多くの人がペットを大切に飼いながら、そのいっぽうで生産された肉を食べている。この矛盾と工場畜産の環境負荷などです。ただ、あんまりこのテーマに踏み込み過ぎると環境保護的なメッセージや食肉批判が強く出過ぎてしまうから、エコテロリストである佐久間に語らせるのにとどめました。彼は過激だし、善人ではないですが、けっこうまっとうなことを言ってるんです(笑)。猪を豚に、オーロックスを牛に、そして狼を犬に、人間は長い時間をかけて品種改良してきました。それぞれの動物が本来持っている荒々しさを奪い、人間と一緒に生活できるレベルまで、弱くした。これが"家畜化"です。本作の大きなテーマになっているのはこれですね。
前川さんは"人間の家畜化"についても語る。
うちの子どもが中学生なのですが、子育てをしていると、これも"家畜化"なんじゃないかと感じるんですよ。家庭にしろ学校にしろ、劇中の言葉でいうところの"人間を弱くする場"なんですよね。ようは、扱いにくい人間を扱いやすいように改良していく場です。猪やオーロックスや狼を弱体化させたのと同じ。扱いにくい子どもをどうやって枠組みの中に入れていくのかが学校という場です。従順に規則に従う子は褒められるいっぽう、従わない子は怒られるし、もっとひどいと何かしらの病名をつけられたりする。こうやってまだ幼い子どもを弱くしていくプロセスが、まさに家畜化そのものだと思うんですよね。ある種の自由を奪う行為です。それに人間はこれまで、"自己家畜化"してきました。集団で町をつくり、国をつくるためには、自らを家畜化するしかない。これに反抗するのが春という存在なんです。
本作『ずれる』では、イキウメの人々が苦心して生み出した"幽体離脱"と、前川さんが口にする"家畜化"というテーマが巧みに絡み合う。
本作のチラシには、"なにかが私たちを見ていた。人間ではない、すべてが。私たちは今も、気付かないふりをしている。"というコピーが綴ってあります。劇中では幽体離脱できるようになった春が、動物には霊体が見えるが、人間には見えないのだと口にします。人間だけが霊的感性を失っているのだと。人間は自己家畜化し、文明化していく過程で、これを失ってしまった。これはずいぶん前から僕が考えていたことなのですが、今回はこうして、幽体離脱というアイデアと、家畜化からの解放というテーマとしてつながったんです。
私は一日だけしか稽古場をのぞくことができなかったが、やはりというべきか、それはある意味においてとても地味で、そして、感動に満ちているものだった。前川さんが書き起こし、イキウメの人々が立ち上げていく『ずれる』の世界観の一部に、私は触れることができたのだ。
私が立ち合うことができたのは、いつかの輝と春のやり取りが展開するプロローグと、春が精神科の療養施設から小山田家に帰ってくる第1場、佐久間が小山田家に現れる第2場、新しい家政夫として士郎が小山田家にやってくる第3場、そしていきなり小山田家に時枝が登場するところまで。
これは想像していたとおりだが、イキウメの稽古場は非常にクールなもの。今回が劇団員のみだというのもあるのかもしれない。しかしそれでいて、ひとつのシーンを終えるたび、アツいディスカッションが必ず行われる。演出者の視点と、物語世界の中に立つ俳優の視点は違う。そして、そのシーンに登場しない俳優の視点もまた違う。それぞれの立場からアイデアを出し、意見を交わすことで、イキウメ作品特有のあの空気感を座組全体で共有している。そんな印象を受けた。そうしてシーンを反復していくたび、それは姿を変えていく。
劇団にもいろんなスタイルがあるが、イキウメの人々の関係性はとてもフラットだ。ユニークなアイデアが出れば、とりあえずみんなで試してみる。その繰り返し。小山田家内の生活感やリアリティにこだわり、シーンの整合性をとっていく様子は、まるで映画の制作現場のようだ。だがそれでいて、いかにして演劇ならではの瞬間を生み出せるか、みんなで試行錯誤していく。
本作でいうところの幽体離脱のように、イキウメの作品にはいつも何かしらの超常現象や怪異が登場する。これを私はイキウメ作品の特徴として、劇場空間において当然のように享受してきたのだが、それらは非常に地道な作業の積み重ねによって実現していたのだ。
それから本作では場面転換に力を入れている。そう、場面と場面とをシームレスにつなぐのがイキウメ作品の特徴のひとつだが、シーンの区切りである場面転換が本作には明確にあるのだ。入念に動線を確認し合い、何度も反復。そうして場面転換さえも、ひとつの美しいシーンに仕上げている。
今回は場面転換がしっかりとあるので、暗転ではなく、ちゃんと見せられるものにしようと思ったんです。お芝居というのはある程度のメタな視点が必要なものですから、物語とは違うレイヤーに存在する、こういうシーンも必要だと思いました。それが美しく、楽しめるものになっていたら素晴らしい。だからいろんな視点から意見を出し合って、時間をかけてつくっていったんです。
イキウメの俳優陣には特別な魅力がある。イキウメの作品に魅せられてきた私にとって舞台上の彼らはつねに美しく(どんな役であれだ)、憧れの存在であり続けてきた。そんな人々が役ではなく、『ずれる』の創作に携わる俳優たちとして存在している空間に、私自身もいる。これは非常に不思議で、とても幸福な時間となった。そしてそこで私は知ったのだ。彼らは役を演じていなくとも、美しいのだと。
イキウメの創作の場なのだから、彼らはイキウメ作品の世界観をまとっているのだろう。そしてそこには共通した何かがある──そう、浜田さんも、安井さんも、盛さんも、森下さんも、大窪さんも、一人ひとりが"イキウメ俳優"という色気をまとっているのだ。
本作における幽体離脱のシーンは観客の想像力があってようやく実現するものだが、そこには彼らイキウメ俳優が共有し合う特別な感覚と、個々の優れた身体がある。
たぶん鍛えられたんでしょうね。俳優が何かしらのイメージを形にして見せられるのは、長年やってきて身についたものなんだと思います。コロス的な演出をした作品のときもそうでしたが、一人ひとりが役ではなく、何者でもない状態で舞台上に存在するための訓練のようなものをずっと続けてきましたから。舞台上で何もしないでいることへの恐れは、誰もが持っているものだと思います。でもいまのイキウメの俳優たちは、自分自身の肉体がそこに存在していることに自信を持っている。身体感覚はバラバラですが、これは共通しています。やっぱり積み重ねですね。
精神的にも肉体的にも感覚を共有することで、特別な世界観を構築することができる。稽古場で創作過程に触れたことで、このことを私は肌で感じることができた。イキウメの劇団力の強さについて、前川さんはどう考えているのだろうか。
正直なところ、この5年で一段階レベルアップした気がしますね。この5年でみんなが掴んだ、というか。そしてその掴んだ力によって、客演で参加してくださる方々にまで影響を与えられるようになったのかなと。それだけ強い表現を一人ひとりが持てるようになったのは、この5年くらいだと思いますね。『外の道』の創作に時間をかけたのも大きいのですが、それ以上に、2019年に世田谷パブリックシアターで上演した『終わりのない』のクリエイションが重要でした。あの作品は人間の"無意識"をテーマにしたものだったので、みんなで第六感を鍛えるトレーニングをしたんですよ。その場にいるみんなが深層心理でつながっていく、みたいな。お互いの身体を意識して動きを合わせるのではなく、どうやったら自然とシンクロすることができるのか。それぞれのパーソナルスペースを確保しながら、意識を空間全体に向けていく。この状態を維持しながら、動いてみる。そして、空間全体に向けた意識の濃度を上げてみる。どうしたら個人の意志を超えて、空間の連動を生み出すことができるのか。あの時間を経て得たものが、『外の道』や『人魂を届けに』にもつながっていきました。それは僕の演出法だけでなく、みんなの俳優としての在り方や、個々の感覚を育むことにもなったんじゃないでしょうか。そしてその力は、客演のみなさんだけでなく、観客のみなさんにまで伝播するわけです。
私がこの力を真の意味で実感したのは、2024年の8月9日のことだった。東京芸術劇場のシアターイーストにて『奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話』が開幕した日である。
この日の上演中に、地震が起きた。客席からは不吉なアラート音がいくつも鳴る。一瞬のことだったが、永遠のようにも思えた。私も身構えた。そのときである。舞台上の浜田さんが、次のセリフを口にしようとしている安井さんを、「ちょっと待って」と制したのだ。やがて、地震はおさまった。そしてその間、なぜだか舞台上の人々は、私たち観客の頭上を静かに見上げていた。そう、劇中の彼らの視線の先にあるのは、空なのだ。私たち観客には見えない空である。けれども、確実に存在している空。
私がイキウメの作品を観ていて、このときほど感動したことはないかもしれない。だって彼らは演劇の外側にある現実さえも、自分たちの演劇の中にごくあっさりと取り込んでしまったのだから。
イキウメの作品に触れるたび、私は新しい私に出会ってきた。肉体は劇場空間にありながら、気がつけば魂だけうんと遠いところに運ばれている。脳や心を、ひいては身体までをも揺さぶられる体験を、私は繰り返してきた。それらの一つひとつは、観客の人生観をも変えてしまうような衝撃体験だ。本作『ずれる』では、輝がいくつかの衝撃体験を経て、その人生観を大きく変えていくことになる。そしてここにもまた、ひとつのテーマがある。それは"解脱"だ。
基本的にどの作品も、解脱というテーマが内包されています。今回は輝を作品の中心に置き、不条理劇的な物語が展開し、やがて彼は解脱に向かっていく。物語のラストで何かが解決することはなく、世界は混沌としているまま。でも僕としては明確なハッピーエンドだと思っています。
これまでのイキウメ作品は、小さな世界を描きながら、途方も無い世界の大きさを観客に提示するものだった。しかし本作に感じるのは、世界の大きさではなく、その深さだ。小山田家という小さな世界にさまざまな考え方や価値観を持った者たちが入り乱れ、世界の層が深くなっていく。その中で、輝は翻弄される。そして私たちは深くなった世界の層の一部に、輝とともに触れることになる。
輝は常識的な人間で、一般的な世界の理解や価値観を持っています。でもそんな彼のすぐそばで、弟が幽体離脱をし、豚が猪になり、シベリアン・ハスキーが狼になる。人は常識を超えたものに出会ったとき、世界の見え方が変わるものだと思います。異常なものの登場によって、それまで構築してきた世界の秩序がボロボロに崩れていく。輝もそうなるわけです。そうした人生観が変わるようなことは、実際にいくらでも起こり得ます。僕自身も何度かそういう経験をしてきました。これって非常に危険なもので、人間を狂気の世界に向かわせてしまうことだってあるんですよ。世界の見方がそれまでとは変わるわけですから。そしてそれをもたらすのが、幽霊や妖怪、あるいは宇宙人など、社会の周縁に追いやられた存在なんじゃないですかね。つまり、個人の理解を超えた存在なわけです。
前川さんは、自身の世界の見方が変わった経験の一つとして、落雷を上げた。
衝撃的ですよ。落雷というものがあるのはもちろん知っていましたが、まさか目の前で起こるなんて想像もしていません。たんなるトラウマといえばそれまでですが、やっぱり世界の見え方が変わります。自分が当たり前だと思っていた世界が、一瞬で崩れてしまったんです。それからというもの、雷は僕にとって、何かを呼びかけてくる存在になりました。落雷は自然現象ですが、世界中に雷神が存在するように、理解を越えた存在にふれる体験になります。こういった非日常は、都市空間の生活では排除されます。それでも都市には都市なりに、揺さぶりをかけてくるものがある。この『ずれる』とは、"呼びかけ"みたいなものに輝が遭遇する物語なんです。彼の身の回りで起こる良くないことは、すべてが"呼びかけ"。輝が守ろうとしているものや、彼を縛っている規範などに対して、得体の知れない何かが揺さぶりをかけてくる。そうして彼は最終的に頭のネジが外れ、ある種の解放に向かう。それが"解脱"であり、そういう瞬間が訪れるのを、本作では描きたかったんです
世界の見え方が変わる。世界というものの捉え方が変わる。人々のそうした瞬間を生々しく捉えているのが、この『ずれる』だ。イキウメにとって、前川さんは本作をどう位置づけているのだろうか。
気に入っています。これまで描き続けてきたテーマだけでなく、いまの僕にとって強く関心のある"家畜化"というテーマも盛り込まれていますから。そのいっぽうで、テーマ主義の作品にはなっていないはずです。たった5人の登場人物だけで、いかに面白い芝居を立ち上げられるかが今作の課題でした。章立てによってシーンを組んでいて、物語はひとつの空間だけで進んでいきます。構造としてはいたってシンプルで、演劇というものの純粋な面白さや、俳優という存在の素晴らしさに触れられる作品だと思います。5人の俳優それぞれの魅力を十分に引き出せた手応えがありますし、これがイキウメという劇団の現在地を示すものになっていると思います。
私は『ずれる』をとおして不思議な体験をした。幽体離脱の瞬間を目撃し、家畜化された人間が解脱していく過程に立ち会ったのだ。そうしてまた、私は新しい私に出会った。
人生には2種類ある。イキウメの世界をのぞいたことのある人生と、そうではない人生だ。この世界の秘密に触れることができた私は、ますます金輪町が愛おしくなってきた。いま、隣にいる友人が奇妙な唸り声を上げた。不穏な風で木々が揺れている。私はこれからもこの町に住み続けるだろう。
折田侑駿/Yushun Orita 文筆家1990年生まれ。
映画、演劇、文学、マンガ、服飾、酒場など、さまざまなカルチャーに関する批評やコラムを各種メディアに寄稿。