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「新しい祝日」
プロダクションノート


■撮影:平岩 享

00

■プロダクション・ノートから  前川知大

カレンダー上には「公」と「私」、二種類の祝日がある。
公は、建国記念日や元旦など、いわゆる公休日。
私は、誕生日や命日など。
公のものは、いつか誰かが決めたフィクションである。
私のものは、絶対である。
コントロール不可能で、ただ与えられる生と死。
生まれた日と死んだ日。
本人にとって、その日以上に重要な日などあるだろうか。

    *

混沌とした世界と同化していた命は、秩序ある社会に参入する。
そこで生きていくためには、ルールを学ばなくてはならない。
そして、ルールブックはない。
毎日繰り返される誕生と死、それを繋ぐ再生と循環。
登場人物は、社会から世界に飛び出し、
再びドアを開けて社会にやってくる。

    *

年の瀬、会社員の男は、取り返しのつかない失敗をし、行き場を失う。
公園で会った老人に話を聞いてもらっていたはずが、
気がつくと身ぐるみを剥がれ、パンツ一丁で元旦を迎える…。

    *

人生は、残念ながら正直どれも平凡で、驚くほど似通っている。
しかしもう一つ驚かされるのは、
全く同じものは一つもないということだ。
世界の真ん中に突き落とされた裸の人間。
物語はそこから始まる。

(2014/10/20)

01

『新しい祝日』
創作過程に関しての妄想と推察  01

(取材・構成 尾上そら)

 「稽古場はいつものつくり方と真逆のことから始めています」。
 そんな風にプロデューサー・N氏は切り出した。イキウメ新作公演『新しい祝日』を指してのことだ。その創作の過程を劇団から発信したい。ついては見学やらインタビューやらをしに稽古場に来ないか、というのが雑文書きの私がいただいた依頼である。
依頼は実に興味をそそるもので、ウッカリと引き受けてしまった。

 数日後、1時間だけ稽古場を覗かせてもらう。
 その日の半分は打ち合わせする前川知大氏らの背中を見つめ、もう半分は俳優陣がポートボールに熱中する姿を見ることで終わった。ポートボール懐かしいゾ、小学校の体育でやったな。生身の人間がカゴというかゴールポストというかな役割を担う、バスケットボールをユルくした感じの競技だ。調べたら大阪府堺市発祥、日本独自のスポーツだそうな。

 別にウォーミングアップがわりということではない。その日彼らはポートボールの試合を介して、「まだ“子ども”と呼ばれる発達段階にある人間が、社会の仕組みとルールを学んでいく過程」を表現しようとしていたのだ。自分の立ち位置や役割を認識し、周囲の人との関係性の中でソコソコに力を発揮し、自分を認めてもらい、相手を受け入れるためにはどうすればいいのか。その場の空気を読み損ねれば均衡は崩れ、弾き出されることにもなり兼ねない。

 子どもたちが無邪気に楽しむボールゲームに、生ぐさく苦い大人の人間関係が透けて重なる。
 「『社会』というフィクション、世界の在りようを創作(演劇)を介して見つめ直す」というのがN氏から聞いた『新しい祝日』のコンセプトの一部だ。なるほど、私たちはこのボールゲームのようなことを大小繰り返しながら、社会を成立させるため暗黙の了解としての「ルール」を刷り込まれて大人になっていくのかも知れない、と演劇上の「ルール」を確かめつつ見世物として膨らんでいくポートボールをしばし眺めた。

 翌日、稽古前の時間に前川氏に話を聞く。思いのほか饒舌に、彼は新作にどう取り掛かったのか、その始まりからを迸るように話し出した。

「別に最初から、“いつもと違うことを” という意識でつくり始めたわけではないんです。劇団での創作は作品の設定、アイデア出しから始めるのですが、最初に出てきたものを並べてみると、どれも “やったこと感がある” という印象のものばかりだった。一方、大ネタに組み合わせるための枝葉となるような小さいアイデアの中に “人間の人生をメチャメチャ抽象化して描いてみる” というものがあった。ドラマづくりは皆そうだと思いますが、大まかなプロットを作ったあと、登場人物個々のサブテキストとして出自や背景などの情報をたっぷり詰め込んで膨らませ、台詞を紡ぎ出していく、というのが普段の僕のつくり方。そのギュウギュウに詰めた個人情報を排し、周囲の人間との関係性だけで一人の人間の人生を語る。そういうものができたら、これまでとは違う『世界』の捉え方ができるのではないかと思ったのが、『新しい祝日』のはじまりでした」

 その「周囲との関係性」の一例が、昨日のポートボールだったのだとひとつ得心する。

(2014/11/11)

02

『新しい祝日』
創作過程に関しての妄想と推察  02

 前川氏の話は続く。
「一人の人間の人生を描く。それは、つまり“人がこの世に生まれ落ち、成長とともに変化していく発達段階を追いかける”ということ。考えてみると“生まれる”ということは、未知の、不可解な世界に投げ込まれるようなものですよね? そんな寄る辺ない状況で人がまず探り、身に着けていかなければいけないのが“世界のルール”だと思った。

それこそスポーツのように、既に先人によって決められている条項から、もっと曖昧な暗黙の了解、果ては属する集団のなかで“空気を読む”というような行為まで、人は生きるために必要な大小さまざまなルールを身につけながら成長していく。

そういう風に考えてみると、僕らが生まれ落ちてきたこの現実こそが、これまでイキウメの作品で描いてきた種々の異世界のように見えてくる。

イキウメではこれまで、日常の中に異世界がスーッと侵入してくる、いつの間にか非日常へと入れ替わってしまう、という構造の作品をつくってきました。今回の異世界は登場人物にとっての現実や社会。つまり、人生が“人が異世界に馴染んでいく過程”に見えた瞬間、ようやく作品がスタートできたんです」

 確かに、人は学びながら成長していく生き物だ。言葉、道具の使い方、他者との関係のつくりかた、集団の中での立ち位置の確保……, etc. つい先ほどまで当たり前かつ前向きと思っていた学習行為が、「異世界への適応のための学び」と定義されると、途端に剣呑な空気が匂い立つのが興味深い。



「今回の異世界の位置づけを考える過程で、比較として上がったのが『片鱗』(2013年)です。あの時は青山円形劇場での公演ということもあり、演技エリアの外=客席まで巻き込んだ空間を異世界とし、そこに客演の手塚とおるさん演じる“何か”を徘徊させることで、観客を巻き込む構造を作りました。360度、青山円形劇場の内部全体が舞台ならば、客席は否応なく物語に巻き込まれてしまう。

 そして客席が今度は、物語世界の住人たちにとっての異世界ということになるので、手塚さんがそこを動き回ってもルール違反にはならない。空間として異世界を置き、観ている人がそこに取り込まれることでの違和感とともに、物語の臨場感を感じてもらうことが『片鱗』の趣向でした。

今回はそれをもう一歩進めてみようと、さらなる進化形をやろうとしています。僕らと観客の皆さんが共通して持っている“現実”の認識が、角度を変えると“異世界”に見えてくる。『片鱗』ではその“異世界”を客席側に設定し、外に出すことで空間的に処理したけれど、そこから更にもう一度、物語の内側に取り込もうとというのが今回のめざすところです。そのために成長と発達、人が世の中のルールを理解していく過程と、演劇的なルールを重ねて描いていこうというのが今のところの方針です」

恐らく、舞台を観れば感覚的に飲み込み、サラッと受け入れられることが、言語化するとなぜこんなに複雑なことのように思えるのか。取材時、会話としてはこのくだり、疑問の余地のないところだったのだが、こうして文章にしてみるとひどく複雑に思える。「世の中のルール」と「演劇的なルール」を重ねるということは、どういうことだろうか。

「今回の登場人物は、異世界に迷い込む人と異世界の住人にスッパリ分けられるんです。迷い込むのは浜田(信也)、安井(順平)の二人。この二人には自分たちのいるところが舞台上で、両脇に舞台袖があるとか、舞台ツラはここまででその先は客席だとか、“世界”の境界線が見えている。いわば観客と同じ状況です。

でもそれ以外の登場人物たちは、基本的に演劇で言う“見立て”をしていて、目の前の空間が部屋だと言われれば玄関から出入りし、壁を突き抜けないように歩く。浜田と安井は次第にそれらルールに気づき、理解し、周囲(異世界)に溶け込むため、ルールに沿った行動をするようになる。

舞台上で浜田たちが『観客と同じように“見えていないものを見る”ようになる』ということが描ければ、演劇を観ている人たちが自然にやっている“見立て”について、『普段僕たちは、日常を浜田たちと同じように見ているよね』と提示できると思ったんです」
 
「ただ、このメタ構造をどう見せていくかが、予想以上に難しくて。どこまでを物語の内側に入れ、どこまでを客席にはみ出すか、非常に繊細なさじ加減で計らなければいけない。そこはとにかく、役者たちと実際にやってみながら探していく他ないんです」

 なんとまあ際どいところを狙っているのかと驚き、少し唖然とする。だが、目の前の稽古を見ていると、前川氏も俳優たちも4つに分けられた人の成長段階、それぞれに設けられた設定とルールにリアリティと不条理の両方を、いかに肉づけするかに楽しげに没頭しているのだ。
 ある場面ではスポーツの試合形式を、ある場面では集団心理の歪みをベースにしながら、まるで新しい遊びをつくり出しているように。

(2014/11/19)

03

『新しい祝日』
創作過程に関しての妄想と推察  03

「視点を変えてみる、ということでは、これまでと同じですが、今回は、『現実のなかに異世界を見る』、『演劇と世の中のルールを重ねる』ことで、裸の日常が見えてきたら?、という方向に持っていきたい。

言ってしまえば、『嘘の世界を浜田と安井が旅する話』です。だから二人は、嘘がないよう舞台上に存在しなければならない。それが、この作品の要になるのかな、と思います」

そして、他の俳優たちが演じる「異世界の住人たち」は、キリスト教における「七つの大罪」のように人間の資質を象徴するものになっている。

「普段は登場人物に、具体的な背景や事情などディテールをいかに厚く肉づけするかが、役者たちの腐心するところなのですが、今回は役として(象徴化されていて)、その背景自体を無くしてしまっているので、その分皆、苦労しているようです。象徴するのは「慈愛」「権威」「敵意」「公正」「打算」「愛憎」「真実」の七つ。

演じる資質ごとにシチュエーションの違うエチュードを、稽古の立ち上げで集中的に行い、構想を膨らませました。それが効いているので、後半部分に戯曲を書き足していっても、皆、スッと作品世界に入ってくれています。そういう風に進めていけるのはホントに有難い。全員、頭をフル回転していると思います。

『(キャラクターの)情報量を増やさない』こと。これが、いつもと真逆の作業。今回の登場人物たちが特定の資質を凝縮させたようなキャラクターだから、突飛な行動や極端な発言は大いにあるべきだけれど、それを裏づけるディテールは必要ない。役者たちは漫画的とも言えるような、デフォルメされたキャラクターを、背景をつくらぬまま演じなければいけない。こういうのはあまりやったことないので、俳優は大変だと思いますが。こちらとしては、それを面白くできればいいな、と」




 稽古中、イキウメの面々はよく話し合う。演出家のオーダーを、演技のなかにどうやって織り込み、より観客に伝わる形に変換するか、自分の役に限らず意見やアイデアを交換する。会話はフラットに交わされ、適度な緊張感はあるものの、ピリピリとした空気は感じられない。一人の俳優と話しこむ演出家の脇で、ほかの俳優たちは別の稽古を自然発生的に始める。俳優同士の横の連絡が緊密に行われていく。

「(イキウメは)荒唐無稽な設定やドラマが多いので、どうやってそのリアリティを確保するかを話し合う機会が多い。演出中に起きている違和感と、物語のなかで起きている違和感を上手く繋げていこう、というようなこと。それに関する感覚を全員が共有するのに、それはもう、常に話し合ってます。『コレだと伝わらない。コッチだとわかりづらい印象もあるけれど意外にイケるかも。その分ここはストレートに伝えよう』といった、さじ加減を皆で作る、っていうようなことをずっと続けてきました。それらのことが今回の作品でも、力になると思います」

常々、イキウメの劇団力の高さには一目置いている筆者だが、前川氏にも、劇団員たちにも、特別なことに挑戦するような気負った様子はない。

話し終えた前川氏が集まり始めた俳優たちの中に入っていき、今日の稽古が始まる。

作品は日ごと形を変え、少しづづ進化をしていく。

(2014/12/06 updated)

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